ウクライナがロシアに虐げられた虐殺の歴史とは

彼の話の続き
多くの犠牲者を生んだホロドモールは、ソ連が1929年から行なった農業集団化(コルホーズ)のシステムが原因とされている。ウクライナの自営農家の土地は没収され、農民は集団農場と国営農場に組織されていった。

収穫した穀物は政府に徴収され、外貨獲得の有効な手段として国外に輸出された。しかし、その輸出量は国内消費分が不足するほど過剰で、恵まれた土壌を持つウクライナでも、課せられた収穫高の達成は困難であった。

ロシアでは、1926年から穀物を中心とした農作物の不足が続いており、その打開策としてこのコルホーズのシステムが導入されていた。

そんな中スターリンは、工業の重工業化を推し進めるべく、1928年に国家成長計画「五ヶ年計画」を導入し、農業集団化はこの計画を成功に導く政策のひとつとして推進された。

徴収した穀物を輸出して外貨に替え、工業化や諸外国への債務返済にあてるためである。当時のウクライナは、穀倉地帯で、1930年代に入る頃には、ウクライナの農民の大多数が集団農場で働かされていた。

しかし、集団化政策の強行は政府の思惑通りにはいかず、不況も重なって減産を招く結果に。それでもソ連は、工業化を無理やり推し進めようとした。ウクライナのコルホーズに過剰な量の穀物徴収を課し、農民には自分たちが食べる分の食料が残らなかった。彼らはろくに食事もできないまま、労働することを余儀なくされたのだ。

さらに、1932年12月には国内パスポート制を導入。ウクライナの国境は封鎖され、農民は自由な出入りは許されず、村や集団農場に縛り付けられた。

イギリスなどヨーロッパの国々は、国際赤十字を通じて、ソ連政府に飢饉への対策を要請したが、「五ヶ年計画」の成功を宣伝していたソ連は、飢饉の存在を隠蔽して認めなかった。

しだいにウクライナではソ連に対する反感の機運が高まり、後に独ソ戦でドイツ軍が侵攻してきた際には、解放軍として大勢のウクライナ人がドイツ軍に志願兵し、共産党員引き渡しなどに加担した。

限られた農作物や食料も徴収された人々は、鳥や家畜、ペット、道端の雑草を食べて飢えをしのいでいた。それでも耐えられなくなり、遂には病死した馬や人の死体を掘り起こして食べ、チフスなどの疫病が蔓延。

極限状態が続き、時には、自分たちが食事にありつくため、そして子どもを飢えと悲惨な現状から救うために、我が子を殺して食べることもあったと言う。

通りには力尽きて道に倒れた死体が放置され、町には死臭が漂っているという有様だった。当時は、飢饉や飢えという言葉を使うことも禁じられていた。

飢饉によってウクライナでは人口の20%(国民の5人に1人)が餓死し、正確な犠牲者数は記録されてないものの、400万から1450万人以上が亡くなったと言われている。

また、600万人以上の出生が抑制された。被害にあった領域はウクライナに限らず、カフカスやカザフスタン、ベラルーシ、シベリア西部、ヨーロッパ・ロシアのいくつかの地域にまで及んでいる。

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